2009年06月30日

パキスタン外相からマンゴーを贈られた毛沢東は

1968年10月、パキスタン外相からマンゴーを贈られた毛沢東は、北京の主要工場に1個ずつ分け与えた。その一つ北京紡績工場では、工場関係者がマンゴーを祭壇に設けて毎日一礼した。マンゴーが腐りかけると果肉をゆで、その汁を従業員全員に恭しく飲ませ、その後マンゴーのレプリカを祭壇に飾った。
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毛沢東に忠誠を捧げる意味から、「毛沢東語録歌」にあわせて踊る「忠の字踊り」が強制され、踊らなかったら列車に乗せてもらえないことがあった。また豚の額の毛を刈りこんで「忠」の字を浮き上がらせる「忠の字豚」が飼育された。
司馬遼太郎は当初文化大革命に肯定的であったが、中国を訪れた際、子供に孔子に見立てた人形を破壊させる光景を目の当たりにし転向し反文化大革命、反中国共産党に転じることになる。
評論家の大宅壮一は幼い紅衛兵が支配者に利用されて暴れている様子を「ジャリタレ革命」と批判した。
四川省1にある麻婆豆腐の発祥の店として知られる麻婆飯店は封建的であるとして「麻辣飯店」と改名を強要された。また、淋淋という女性は毛沢東に「礼儀正しいのは結構だが(淋という字には礼儀正しいという意味もある)、武も必要じゃないかね?」と指摘され、「淋要武」と改名したことが美談となった。

2009年06月12日

ヴィクトール・フランクルの思想

人間が人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に対し問いを発してきている。だから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである。人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、それぞれの人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない

多くの人は人生を「自分がしたいことをしてゆく場」と捉えてしまっている。このような「私のやりたいことをするのが人生だ」という人生観(欲望中心の価値観)に対し、フランクルは「私がなすべきこと、使命を実現してゆくのが人生だ」という価値観へと転換しているのである。
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カバディ
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欲望中心の価値観では、例えば病気や人間関係等のトラブルはただの邪魔なものとしか眼に映らないが、「意味と使命中心の生き方」「なすべきことをなす生き方」では、それらのトラブルは何らかの意味がある、と受け止められるようになる。「これらの出来事を通して、人生が私に何かを問いかけてきている」「私に何を学ばせようとしているのだろう?」と受け止めることができるようになる、といったことをヴィクトール・フランクルは言っている。

そして「人生が自分に求めていること」を見つけるための手がかりとして、"三つの価値"を提示する。「創造価値」「体験価値」「態度価値」である。

創造価値
自分の仕事を通して実現される価値。これは大それたものである必要はなく、例えば、調理、コピーとり、清掃などでも。これによって助かる人、快適になる人がいる何かを提供している、ということ。
体験価値
人や自然と触れ合う体験によって何かを受け取ることができ、また何かが実現できる価値のこと。
態度価値
自分に与えられた運命に対してどういう態度をとるか。それによって実現されてゆく価値のこと。人生には、生まれつき決まってしまっている一種の「宿命」のようなものもあり、「運命」とも言えるものもあり、また生きている最中にはさまざまなことが起きる。このような「与えられたもの」に対してどういう態度をとりながら生きるかによって、その人の人生の真価がわかる、とフランクルは述べる。そして、この態度価値だけは、(前述の二つの価値とは異なり)人がいかなる苦境に追い込まれ、さまざまな能力や可能性が奪われても、実現の可能性がたたれることはない、と述べる。つまり、この価値をもってすれば、人は息を引き取るその瞬間まで、人生から意味が無くなることは無く、「人生の意味」は絶えず送り届けられ、発見され、実現されるのを待っている、ということになるのである

2009年06月08日

教育委員会制度について政策レベルで現在につながる

教育委員会制度について政策レベルで現在につながる改革論議が公になされたのは、臨時教育審議会だった。

1986年(昭和61年)に第2次答申「教育行財政改革の基本方向」において、教育委員会の現状を次のように厳しく言及した。

「近年の校内暴力、陰湿ないじめ、いわゆる問題教師など、一連の教育荒廃への各教育委員会の対応を見ると、各地域の教育行政に責任を持つ『合議制の執行機関』としての自覚と責任感、使命感、教育の地方分権の精神についての理解、主体性に欠け、二十一世紀への展望と改革への意欲が不足しているといわざるを得ないような状態の教育委員会が少なくないと思われる。」

その上で、改革の方向性として

教育委員の人選・研修
教育長の任期制・専任制(市町村)
苦情処理の責任体制の確立
適格性を欠く教員への対応
小規模市町村の事務処理体制のあり方
知事部局等との連携
について提言している。

翌年には、臨教審の流れを受けて教育委員会の活性化に関する調査研究協力者会議が発足し、教育委員会活性化方策が検討された。その内容は、

教育委員会の選任
教育長の選任(市町村教育長の専任化と教育長の任期制の導入)
教育委員会の運営
事務処理体制のあり方
地域住民の意向等の反映
首長部局との連携
等の項目について具体策が提案された。この会議は、臨教審には無い、3.教育委員会の運営や4.事務処理体制のあり方、5.地域住民の意向等の反映など、教育委員会の職務遂行上の実践的・日常的な運営について重点が移っている。市町村教育長の専任化と教育長の任期制の導入などの提案は、実現こそしなかったものの、地方教育行政の在り方に関する調査協力者会議や政府の地方分権推進委員会においても教育委員会の改革が検討された。

1996年(平成8年)からは、地方分権推進委員会において検討が進められた。5次に渡る勧告において、委員会は、国と地方との関係について、機関委任事務の廃止と必置規制や補助金等の個別事項についての見直しに言及した。教育委員会関係では、教育長の任命承認制度の廃止、文部大臣と都道府県教委・市町村教委との関係の見直し等の勧告が出され、地方分権推進計画が閣議決定された。

翌年の1997年(平成9年)には、21世紀に向けた地方教育行政の在り方に関する調査研究協力者会議が発足し、
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学校と教育委員会の関係
国、都道府県、市町村の関係
地域住民と教育委員会・学校との関係
教育委員会の事務処理体制
地域コミュニティの育成と地域振興
の柱に沿って地方教育行政制度の見直しに当たっての論点を整理した。

中教審自体も1998年(平成10年)に「今後の地方教育行政の在り方について」答申を行い、2000年(平成12年)の地方分権一括推進法成立による地方教育行政法の一部改正では、

教育長の任命承認制度の廃止
指導等に関する規定の見直し
都道府県の基準設定の廃止
を行った。これにより、教育委員会の裁量で少人数学級の編成が可能になったり、教育長の選任は、首長が任命した教育委員の中から行うようになったりした。

2000年(平成12年)の教育改革国民会議でも、

教育委員の構成の多様化や保護者の参加
会議の公開の原則
などを報告し、2年後の2002年には法改正も実現している。このように、教育行政改革は、内閣が直属の諮問機関を設け、主導する形で改革の方向性を示し、それを受けて文科省・中教審が対症療法的に政策を検討する形で展開されている。

2006年7月、政府は、市町村の教育委員会に関する規制緩和で、文化・スポーツに関する事務などの権限を首長に移譲できる構造改革特区の設置をめざす方針を決め、「骨太の方針」(2006年「経済財政運営と構造改革に関する基本方針」)を閣議決定した。方針は「教育委員会制度については、十分機能を果たしていない等の指摘を踏まえ、教育の政治的中立性の担保に留意しつつ、当面、市町村の教育委員会の権限(例えば、学校施設の整備・管理権限、文化・スポーツに関する事務の権限など)を首長へ移譲する特区の実験的な取組を進めるとともに、教育行政の仕組み、教育委員会制度について、抜本的な改革を行うこととし、早急に結論を得る。」とする。

しかしながら、北海道滝川市におけるいじめ自殺事件をめぐる教育委員会対応に対する世論の批判の高まりを受け、教育再生会議において、機能の強化を図ることが検討されている。

2009年04月24日

テル・アブ・フレイラ

テル・アブ・フレイラ(Tell Abu Hureyra、アラビア語:?? ??? ?????)は古代のレバント東部・メソポタミア西部にあった考古遺跡。今から11,000年以上前に穀物を栽培した跡が見られ、現在のところ人類最古の農業の例となっている。テル・アブ・フレイラはシリア北部アレッポから東に120km、ユーフラテス川中流域の南岸の台地上にあったが、ユーフラテス川をせき止める巨大ダム建設により現在ではアサド湖の水底にある。遺跡では、放棄されていた時期を挟んだ二つの異なる時期の住居跡や食物の跡などが発見された。

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テル・アブ・フレイラの遺丘の下から見つかった亜旧石器時代(中石器時代)の住居跡(アブ・フレイラ1)は、今からおよそ11,500年前に成立し、10,000年前頃まで続いた。おそらくレバント南部に早くからいた亜旧石器時代のナトゥーフ文化人が北東方面に当たるこの地に勢力を拡大したとみられる。集落は少数の円形の住居から構成され、木や小枝等で作られていたと考えられる。人口は最大で100人から200人であった。この時期、食料は野生動物の狩猟、魚釣り、野生植物の採集で得ていた。住居の地下には食物が蓄えられていた。狩猟の対象だった主な動物は、毎年この周辺を移動するガゼルや、その他大型動物はオナガー、ヒツジ、ウシ等で、小形動物ではノウサギ、キツネ、鳥等を年中狩っていた。また採集されていた野生植物には、二種類の野生のライムギ、アインコーン(einkorn、一粒系コムギの一種・ヒトツブコムギ)、エンメル麦(Emmer、二粒系コムギの一種)、ヒユ、その他レンズマメやピスタチオなど野生の子実類があった。

一方、11,050年前のライムギの耕作・栽培の証拠がこの遺跡から発見された。この時期は、最終氷期が終わり温暖化に向かっていた気候が再び急激な寒冷化を迎えたヤンガードリアスという寒冷期の始まりにあたり、この地域の気候の乾燥化によって野生動物や野生のムギ類が減少し、採集に依存していた人々は食糧確保の為に農耕を始めたとされている。この時代の地層から出土したライムギの種子を放射性炭素年代測定などで分析した結果、亜旧石器時代にはすでに野生種から栽培種となっていただろうことが明らかになった。

2009年04月07日

シーンとして大きいのは生楽器

狭義のエレクトロニカの分類 [編集]
(狭義の)エレクトロニカは様々な方向に向かった。

シーンとして大きいのは生楽器を取り入れたスタイルである。初期にはフォークトロニカと呼ばれていたが、現在エレクトロニカ自体この手法が主流となったため、そう呼ばれることは少ない。彼らの中にはポスト・ロックとほとんど聞き分けが付かないようなサウンドを展開する者もいる。ムーム、ミノタウロ・ショック、テレフォン・テル・アヴィヴのセカンドアルバムなどがこれにあたり、この手法は世界中に広がっている。一般的にはポップな物が多いが、中にはミッチェル・アキヤマやエッケハルト・エーラーズのように実験的・アンビエント・ミュージック的な方向性を示すアーティストもいる。比較的ポップなアーティストの中には明確にジャンル分けされていないが、「可愛らしい系」とでも呼ぶべきキュートでトイポップなサウンドを作るアーティストが、一定の人気を保っている(「トイトロニカ」などとも呼ばれる)。この方向ではルラトーンやメロディウムといったアーティストが知られており、草分け的存在としてClicks & Cutsにも参加したダット・ポリティクスが挙げられる。
エレクトロニカにジャズ的要素を臭わせたニュージャズ、電子音響ジャズと呼ばれるアーティスト達も存在する。これらはどちらかというとポスト・ロックやクラブ・ジャズ、トリップ・ホップと関連性が深く、基本的にバンド編成であるが、中には初期ラディアンの様によりエレクトロニカに接近したアプローチも存在する。
もちろん現在も王道的な電子音のみでサウンドを形成するエレクトロニカも多く存在する。重鎮オウテカやパンソニック、同じく古参のマウス・オン・マーズ、ボラといったアーティストや、n5MDやU-Cover、Skamといったレーベルが挙げられる。日本人の人気アーティストツジコノリコもボーカルは使用しているが、この範疇に入ると考えられる。一時期異常に複雑化したプログラミングへの反動か、クラークのように逆にシンプルでダンサブルな方向性を示すアーティストもいる。
同じくクリック全盛時代と同じようなアプローチを続けるアーティストも多い。この方面のアーティストにはノイズ・ミュージックやアンビエント・ミュージックとも取れるようなサウンドも存在する。池田亮司やピタといったアーティストやTouch、エディションズ・メゴといったレーベルが挙げられる。池田亮司やピタはClicks & Cuts以前からこの様なアプローチをしており、シーンに大きな影響を与えた。ただしクリックを発見したオヴァルは、2004年以降活動を停止している。
狭義のエレクトロニカと同時期?やや後に注目されたのはマイクロスコピック・サウンドあるいはロウワーケース・サウンドという手法である。クリックやグリッチ、サイン波のドローンを分散的に配し限りなく少数の音で空間を形成するサウンドは、必ずしも大きなシーンにはならなかったが、一定の影響力を保ちつつある。この方向ではリチャード・シャルティエ、キム・カスコーン、Sachiko Mといったアーティストや12k、そのサブレーベルのLineといったレーベルが有名である。アンビエント・ミュージックのアーティストとして知られるウィリアム・バシンスキーやテイラー・デュプリーもこのシーンと密接な関係にある。
他方ではヒップホップとの融合である。これは既にエレクトロニカでは重鎮と見なされていたオウテカがアメリカツアーの際にマイアミにも訪れ、その時に生まれた交友関係が元だと言われ、「マイアミシーン」と称されることもある。オウテカ自体はヒップホップの影響を受けていると言ったり、それを否定したりと言動が一定しないが、ヒップホップを取り入れたエレクトロニカは一大勢力を築いた。また、元よりトリップ・ホップというテクノとヒップホップの派生系のようなシーンがあったり、プロディジーやボム・ザ・ベースといったアーティストがデトロイト・テクノと前後して活動していたこともあり、比較的この方面へのエレクトロニカの導入はスムーズだった(更に言うなら、デトロイト・テクノ自体がエレクトロの派生とも言える)。レーベルとしてはメアク・レコーズ、スキマティックが有名であり、注目されるアーティストはマシーンドラム、ファンクステルング、ダブリー、プレフューズ73といったところである。ただしメアク・レコーズ自体は純粋なIDM(プロエム)からポストロック(チキ・オブマー)までリリースする幅広いレーベルであった。またヒップホップレーベルアンチコンは後述するモール・ミュージックと関係があることでも知られる。
もう一方ではインディー・ロックとの融合が計られた。この方面ではモール・ミュージックが有名であり、手法としてはフォークトロニカとある程度重なり、ボーカルや生楽器を大幅に取り入れるサウンドである(インディートロニカとも呼ばれることがある)。この手法はインディー・ロックのファンにも大いに受け、人気となった。
もう一方、人気のある手法としてシューゲイザーとの融合である「エレクトロ・シューゲイザー」とでも呼べる手法がある。代表的なレーベルがあるわけではないのでシーンとしては確立していないが、ウルリッヒ・シュナウス、マニュアル、ギターといった人気アーティストを輩出した。これは一般的にはリズムを打ち込みにして、上物を様々なギターサウンドで飾るというスタイルが主流である。元々シューゲイザーはリズムの比重が弱かったことから、この手法は多くのロックファンにもすんなり受け入れられ、人気になっている。
その他ではヨハン・ヨハンソンのようにクラシック音楽にエレクトロニカを導入した例や、chiharu mkのようにINA-GRMでミュージックコンクレートの現在形アクースマティックの影響を受けたエレクトロニカの例などがある。

エレクトロニカ以前の影響が強いもの [編集]
以下に挙げるサウンドはどちらかというと(狭義の)エレクトロニカ以前のダンスミュージックであるテクノやドラムンベース、トリップ・ホップなどとの関連性が高い。しかしエレクトロニカと同時期に発展したこともあって、同列に挙げられることが多く、アーティストやレーベル間でも交流があったり、同じアーティストでも非ダンス/ダンスミュージック両面のアプローチをすることもある。

ブレイクコアはドラムンベースやドリルンベース及びガバの派生系と見られており、μ-Ziqのレーベルプラネット・ミューが有名。ヴェネチアン・スネアズが主要アーティストとして挙げられる。ブレイクコアの中には一部のガバ(アタリ・ティーンエイジ・ライオットなど)やグラインドコアの影響を受けて、インダストリアルに近い方向性を示すアーティストもいる。
ダブを取り入れたテクノとしてベーシック・チャンネル一派のミニマル・ダブがあり、~Scapeといったレーベルやポール、ヴラディスラヴ・ディレイ、ヤン・イェリネック、モノレイク、デッドビートといったアーティストが挙げられる。基本的にはエレクトロニカ以前より勃興しておりテクノやハウスの直系であるが、彼らが多用するレコードノイズがグリッチの一種とされたり、非ダンスのアプローチが多いこともあって、狭義のエレクトロニカとの関連も深い。またこのシーンより影響を受けて、アロヴェインのように「ベーシック・チャンネル・ミーツ・オウテカ」と呼ばれるようなサウンドを展開するエレクトロニカアーティストもいる。
また、ダブ、グライム、エレクトロニカ、トリップ・ホップ、ドラムンベースなどに幅広い影響を受けた、フロア向けサウンドの総決算とも言えるダブステップと呼ばれるジャンルも誕生した。これはトリップ・ホップと同じくブリストルが震源地と思われ、サウンド的には共通点が多い。

現在のエレクトロニカ [編集]
その後もエレクトロニカはフェネスのような才人を輩出した。しかしミル・プラトーは紆余曲折の末に活動を停止し、メアク・レコーズなど大手レーベルも2005年辺りから閉鎖することが相次いだ。他方ではコアなエレクトロニカを中心にリリースしていたn5MDがロックバンドのリリースをしたり、テクノ全盛期から布石のようにロックバンドのリリースもしていた古参ワープ・レコーズがそちら方面のリリースを本格化させるなど、シーン全体としては縮小傾向にある。一方では少々のエレクトロニクスのみを取り入れたロックバンドがエレクトロニカと称されるなど、意味の拡大もある。また、クラフトワークやいわゆるエレクトロ・ファンクとも違うエレクトロやニューレイヴと呼ばれるダンスロックがメディアを通じて流行している。

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2009年03月23日

警笛においては、通常の空気式に加えてその補助

警笛においては、通常の空気式に加えてその補助としてトランジスタ式のトランジスタホーン(今で言う電子警笛)を装備している。3音階で作られた音楽を奏でるミュージックホーン(音楽ホーン)と3音同時吹奏による電気笛(電笛)である。このミュージックホーンは、営業初日まで車両開発の関係部署以外役員にさえその存在を知らせない徹底した極秘プロジェクトとして企画され、発車式にて初めてミュージックホーンが披露された。なお、空気笛も音が最後で切れる独特のタイプとなっている。

ミュージックホーンは、本系列の後継特急車となる1000系や1600系はもとより、中部国際空港の連絡特急用として2004年(平成16年)に新製された2000系・2200系などにも受け継がれ、名鉄特急には欠くべからざる存在として、鉄道ファンや利用者からも親しまれている。
どんどん橋 バンケット ドラント カステラ セルフ ターン トーチカ ピアサポタ リーバス クロラール キッチ かほく ビジター スピカ 大地の景色 モンゴル 真昼の月日 ドス上位 オーバリ マグネ クロマト モンタント やんぐこ セレス カウハイド ハナショ たそがれ フカロッ ヒノキ ベット カリス マニキ こちんだ バイサイド ラフ アウト タイガー キュラ やまびこ ブーム 大冒険 スケット トランス ハーレム クライ ジンマカオ バック ロスマリン キレイ モアイ

電気笛は、駅を発車する際やミュージックホーンの最後に鳴らされることが多い。

車体塗色 [編集]
鮮やかなスカーレット一色の塗装は、画家杉本健吉の進言によるとされる。第一案では濃緑、第二案でスカーレットが示された。当時では本系列のみが身に纏っていたスカーレット塗装も1968年頃より高性能車(優等列車)の基本色となり、以降の新製(更新)車両を始め、既存車両もその強烈な個性にあやかるかのように1970年代後半から順次スカーレット一色へと塗り替えられ、現在の「赤い電車 = 名鉄」とのイメージが定着するきっかけとなった。

なお、時代によってスカーレット(赤)の色合いに差があり、本系列の登場時は現在の色合いに近いと言われているが、1970年代は全体的に濃いめ(暗め)の色合いが、また既存車両の塗り替えでは車両(時期など)により多少の明暗が存在した(経年による退色・色焼けなどの差も今日より大きかった)。塗料の進化や塗装工程の自動化などにより、現在では明るいスカーレットを基本として車両間の誤差(色合いの違い)は解消されている。

また、先頭車前面の油圧ダンパー(緩衝器)頭部とスカート(排障器)は登場時より乳白色で塗装されていたが、2000年(平成12年)頃より6500系初期車の前面上部と同色のグレーに変更されている。

前頭部中央の窓上に斜め下を向いて設置されている一見スポットライトのようなものは、発車時に車両直前の安全確認を徹底させるための装置で、「フロントアイ」と呼ばれている。当時、名古屋鉄道の車両部で勤務していた小山一義が本部より後述する当時の運輸省の許可を得るための開発を任され、その努力の末に完成したのがこの「フロントアイ」である。他の案としては、ミラーを取り付ける案などがあったが、最終的にシンプルな形で完成した。広角凸レンズを用いて運転席から車両直前の10mにも及ぶ死角が見えるようになっている。当時、特に支線では停止位置の直前が構内踏切という箇所が多かったための安全対策である。また、犬山橋は自動車や歩行者と並走するため運転室が2階にあることで死角ができ、当時の運輸省から許可がおりなかったためでもある。3次車から採用され、後に従前車にも設置された。ちなみに、運転席からフロントアイを覗くと天地が逆さに見える。レンズは、新城市内の望遠鏡メーカーが製造した。

旋回式標識灯 [編集]
上下に4灯ある前照灯のうち油圧式ダンパと一体になった窓下の2灯は、列車後尾となった時は赤色のフィルターを掛けて尾灯となる。さらに、この2灯は運転障害で不時停止した際などに前照灯・尾灯いずれの状態でも光源を旋回させることによって、他の列車に緊急事態を知らせる機能を持っている。

2009年03月07日

チェスター (重巡洋艦)

チェスター (USS Chester, CL/CA-27) は、アメリカ海軍の重巡洋艦。ノーザンプトン級の2番艦。艦名はペンシルバニア州の都市チェスターに由来する。

チェスターはニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工する。1929年7月3日にJ・T・ブレインによって進水し、1930年6月24日に艦長A・P・フェアフィールド大佐の指揮下就役、大西洋艦隊に合流する。

チェスターは1930年8月13日にロードアイランド州ニューポートを出航しヨーロッパへ巡航する。バルセロナ、ナポリ、コンスタンチノープル、ファーレロン湾、ジブラルタルを訪問し、10月14日に修理のためペンシルバニア州チェスターに帰還した。チェスターは偵察艦隊の旗艦として軽巡洋艦部隊に加わり、1931年3月6日にパナマ運河地帯で例年の艦隊演習を視察した海軍長官を戦艦テキサス (USS Texas, BB-35) から乗艦させた。3月22日にフロリダ州マイアミで長官を下ろし、その後フランス海軍の2隻の巡洋艦を護衛してナラガンセット湾での演習に向かう。

ニューヨーク海軍工廠でオーバーホールを受けたチェスターは二基のカタパルトが艦中央部に装備された。艦載機と弾薬を搭載したチェスターはハンプトン・ローズを1932年7月31日に出航し西海岸へ向かう。カリフォルニア州サンペドロに8月14位に到着し、通常任務に従事、1934年4月9日に特別任務部隊の旗艦としてサンペドロを出航した。5月31日にニューヨークに到着し大統領の閲艦を受け、11月9日にサンペドロに帰還した。1935年9月25日、チェスターは11月15日に行われるフィリピン大統領就任式に出席する陸軍長官一行を乗艦させる。12月14日にサンフランシスコに帰還、第4巡洋艦隊と共に通常任務に復帰する。

1936年10月28日にサンフランシスコを出航したチェスターは11月13日にサウスカロライナ州チャールストンに到着、5日後にアルゼンチンのブエノスアイレス、ウルグアイのモンテビデオを親善訪問するルーズベルト大統領を乗艦させたインディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35) に護衛艦として随行する。12月24日にサンペドロに帰還し、その後は西海岸で活動し、艦隊演習やハワイ、アラスカへの訓練巡航を行う。1940年9月23日から1941年1月21日までは東海岸で訓練とオーバーホールを行った。

1941年
2月3日からチェスターは真珠湾を母港とし、ハワイ海域で訓練を行ったほか5月14日から6月18日までの期間は西海岸への航海をおこなった。10月10日から11月14日までの間、チェスターはマニラへの増援部隊を乗せた輸送船2隻を護衛した。空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 、重巡洋艦ノーザンプトン (USS Northampton, CA-26) と合流して帰投中に、日本軍による真珠湾攻撃がおこなわれた。

チェスターは第8任務部隊と共にハワイ周辺で哨戒活動に従事した。12月12日、チェスターの搭載機が潜水艦を爆撃した。

1942年
1942年1月18日から24日までチェスターはサモアへの増援部隊の上陸を支援した。それから第8.3任務群に加わり2月1日にマロエラップ環礁タロア島攻撃がおこなわれた。激しい空襲の中を退却中にチェスターは1発の命中弾を受け8名の戦死者と38名の負傷者を出した。2月3日、チェスターは修理のため真珠湾に帰投した。

サンフランシスコまでの護衛任務の後、チェスターは第17任務部隊に加わった。第17任務部隊は5月4日にガダルカナル島・ツラギ攻撃を、5月7日にルイジアード諸島ミシマ島攻撃をおこない、5月8日には珊瑚海海戦を戦った。5月10日、チェスターに駆逐艦ハムマン (USS Hammann, DD-412) から空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) の生存者478人が移され、5月15日にトンガ島へ運ばれた。

西海岸でのオーバーホール後、チェスターは9月21日にヌーメアに着き第62任務部隊に加わった。第62任務部隊は10月2日から4日にフナフティ島上陸を行った。それから、チェスターは南に向かった。ソロモン諸島での作戦支援中の10月20日、チェスターはサンクリストバル島南東沖で日本の潜水艦伊176の発射した魚雷の内の1本を右舷に受け、11名が戦死し12名が負傷した。10月23日、チェスターは応急修理のためエスピリツサントに戻った。10月29日、更なる修理のためオーストラリアのシドニーへ向かった。12月25日、完全なオーバーホールのためノーフォークへ向かった。
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1943年
1943年9月13日にチェスターはサンフランシスコに戻り、10月20日までサンフランシスコと真珠湾の間で護衛任務に従事した。11月8日、チェスターはマーシャル諸島への侵攻のため真珠湾を出航した。チェスターはアベママ島上陸を支援し、タロア島、ウォッジェ環礁、マロエラップ環礁を砲撃した。

1944年
1944年4月25日までチェスターはマジュロ沖で対潜、対空哨戒にあたった。それから5月6日から22日までサンフランシスコで短期間のオーバーホールを行い、5月27日にアラスカのアダック島で第94任務部隊に加わった。部隊は6月13日と26日に千島列島の松輪島と幌筵島を砲撃した。それから真珠湾に向かい8月13日に到着した。

チェスターは8月29日に第15.5任務群と共に出撃し、9月3日にウェーク島砲撃を行った。9月6日、エニウェトク環礁に到着。サイパン沖への展開、10月9日の南鳥島砲撃後、チェスターはルソン島やサマール島攻撃にあたる第38.1任務群に加わった。

1945年
1944年11月8日から1945年2月21日まで、チェスターはウルシー環礁やサイパンから出撃して硫黄島や小笠原諸島を砲撃し、2月19日の硫黄島上陸を支援した。

西海岸でのオーバーホール後、6月21日にチェスターはウルシー環礁に戻り、6月27日から沖縄周辺の哨戒や掃海活動の支援をおこなった。7月後半チェスターは長江デルタ沖の部隊へエアカバーを提供する部隊に編入された。8月、チェスターはアリューシャン諸島への航海をおこなった。チェスターは8月最後の日に出航し、9月と10月の大湊、青森、函館、小樽上陸に参加した。チェスターは硫黄島で帰還する兵士を乗せ11月2日にサンフランシスコへ向けて出発した。サンフランシスコには11月18日に到着した。11月24日から12月17にまでグアムから軍人を運んだ。

1946年1月14日フィラデルフィアへ向けて出航し、1月30日に到着した。

2009年02月19日

クリンゴン人(クリンゴン語:tlhIngan、英語:Klingon)

クリンゴン人(クリンゴン語:tlhIngan、英語:Klingon)はアメリカのSFテレビドラマ/映画『スタートレック』シリーズに登場する架空のヒューマノイド型異星人。惑星連邦、ロミュラン星間帝国、カーデシア連邦に隣接し、アルファ、ベータ宇宙域にまたがって広がる星間国家の一つ、クリンゴン帝国を支配している。帝国には三本の爪を象った紋章があり、随所で使われている。正式に名前を呼ぶ時には「……(父親の名前)の息子(または「娘」)……」(..., son/daughter of ...) と言う。
ビーシ イズミル サイド トレハ シェブロ マイラー ホウオウ マドレーヌ マルチビ チャー ピナクル マックス エデン 恋のラジオ 桔梗ナビ 桜桃 セリ対策 テナント メンタル スペー パワー あぴお スタート ジョイ ナビゲ レバー支援 トルマン アポク オフライ フォートラン まっち レンゲ ブラウザー ビネガ ナイト テオプ ふぁんでる ヨットパ まぜり タイザー チケット サラシア 秋の夕暮れ ジンギ スタンス ロールフ えせん バック オイディ コスト

『宇宙大作戦 (TOS)』においては「何かと惑星連邦に楯突く、宇宙第二の覇権大国」という旧ソ連風の負のイメージが強かった。しかし徐々にイメージが改善され、以下の諸設定が付け加えられた(TOSのクリンゴン人はかなりベタな悪役で、勇猛というより残虐、狡猾で卑劣であった)。

クリンゴン人の身体は男女共一般的に大きく、堅牢な骨格と発達した筋肉に覆われている。女性は乳房の発達も地球人と比べ大きい。肌は浅黒く、男性は必ず髭を生やしている。また頭蓋が非常に発達しており、額の波状隆起が特徴的。これは非常に硬く、戦闘時における脳へのダメージを軽減させるための役に立っている。戦闘種族としての身体特徴は体内の主要な臓器にも見られる。生命維持に必要な主要臓器は複数あり、戦闘中に負傷しても行動し続ける事ができる。ただ、意味のない生よりは死を尊ぶ倫理観を持つために、麻痺・重症患者の治療は行われず、また、死体は単なる精神の抜け殻だとして見向きもしないために、解剖学が発達せず、詳しい生理は分かっていない。また、クリンゴンのセックスは男女両者が激しく興奮し、お互いの暴力衝動をぶつけ合うような、流血を伴う凄まじいものである。

クリンゴン人の変異
TOSに登場したクリンゴン人のメイクは地球人とあまり変わらないもので、映画『スタートレック (TMP)』以降とは全く違う。この「真の」原因はもちろん当時の特殊メイク技術の限界とTOSの低予算が原因である。多くのファンは見て見ない振りをし、作中世界にはこの違いは存在しないと考えた。『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン (DS9)』第39話「血の誓い」では、TOSに登場したクリンゴン人と同一人物が「TMP型」メイクで現れ、この考えを補強した。

『DS9』第104話「伝説の時空へ」では、この違いが登場人物により語られ、作中世界に実際に存在する違いであることが明らかになった。その原因については、ウォーフが「外部のものには明かさないことになっている」と語り、一部のファンはこれを一種の楽屋オチ、つまり、原因は制作上の都合だから作中人物には語れないのだと解釈した。ただしこのとき、オブライエンが「遺伝子工学」、ベシアが「ウイルスの突然変異」と推測を述べている。

『スタートレック:エンタープライズ (ENT)』には「TMP型」のクリンゴン人が登場し、「TOS型」が23世紀に限られていることが明らかになった。そして第91話「Affliction(クリンゴンの苦境)」と第92話「Divergence(優生クリンゴン)」で、全ての経緯が明らかになった。

それによると、地球で開発された優生人類のDNAは秘密裏に保管されていたのだが、遺伝子工学の権威であるエリック・スン博士によって盗み出され、新たな優生人類が誕生していた。その事件自体は、エンタープライズの活躍によって収束し、新たに作られた優生人類たちは死に絶えた。しかしスン博士の優生人達が盗んだバード・オブ・プレイの残骸から、優生人類の受精卵を発見したクリンゴンは、密かに優生クリンゴンの開発に着手した。だが予想外に強い遺伝子は、クリンゴンの遺伝子に悪影響を与えてしまった。すなわち額の隆起が消滅し、外観が地球人そっくりになってしまったのだ。

さらに被験者がヴォディア風邪に感染してしまい、優生遺伝子がウィルスとなってしまったのだ。このウィルスは空気感染するため、瞬く間にクリンゴン全体を襲う脅威となった。当初クリンゴンは感染者を抹殺しようとしたが、結局それでは完全に防ぐことができず、むしろエンタープライズやフロックスの協力で作成された抗ウィルス剤の使用が最適と判断された。この抗ウィルス剤は、命を救うことはできるが、変化は止められなかった。その結果100年以上に渡って、地球人と外観の似ているクリンゴンが一般的となったのだ。

つまり後にオブライエンとベシアが出した推測は、両方とも当たっていた。

精神
クリンゴン人は好戦的な戦闘種族である。戦うこと自体に意味を見出しており、「何のために戦うか」ということに関心がない。そのため戦えない者は生きる資格が無いとされ、負傷などで戦えなくなった者は、儀礼的な名誉の戦死として自決することが良しとされる。敵を倒す事はもちろん、上官の能力がその地位にふさわしくなければ決闘を申し込み、殺して自分が取って代わる事も日常的に行われている。そのため、捕虜になったり病死する事は、クリンゴン人として不名誉な事であり、病死や捕虜になると「あの役立たずめが」「名誉の戦死も出来無い臆病者」「おめおめと生きながらえているクズ」「屍同然の恥晒し」等と蔑まれ、たとえそれが父親や先祖・身内であっても“一族の恥”として罵倒する。しかし、最大の不名誉は裏切りである。名誉を重んじる戦士にとって裏切りはあってはならないことであり、これが発覚すれば本人だけでなく一族が“裏切者の一族”の汚名を受け、侮蔑の対象となる。

クリンゴン人戦士は戦闘や精神修練により、自己を鍛錬し、より高みを目指すことを本分とする。これは死後、建国の祖にして伝説の英雄カーレス (qeylIS) の元に召されることを精神的拠り所とするためである。クリンゴン戦士は死した戦友を葬る際、その両目を見開かせ、自らの眼で覗き込み、天に向かって雄たけびを上げる儀式を行う。これは、「今、戦士が逝く」ことをカーレスに伝える意味を持つ。死者の魂は「死者の船(船長はコーター qotar)」と呼ばれる大船に乗せられて激流(同様の伝承としてはギリシア神話のステュクスや仏教の三途の川等がある)を越え、勇者として死んだ者は「スト・ヴォ・コー (SIto'vo'qor)」へ、そうでない者はフェックラー (veqlargh) が支配する「グレトール (ghe'tor)」へ送られる。なお、たとえ不名誉な死を遂げた者でも、その家族や友人が代わりに戦い、勝利を死者に捧げればスト・ヴォ・コーへ行けるようになる。

文化
クリンゴンの文化は、日本の武士文化や、モンゴル騎馬民族のそれに類似する。基本的には名誉を重んじ、虚言や臆病などを良しとしない。情熱的であり、義理堅い民族性を持つ。また、建国の祖・カーレスについて学ぶ事も重要で、カーレスにまつわる故事や伝説も沢山あるようで、ウォーフが息子のアレキサンダーによくカーレスの故事を引き出して教育しようとしていた。

クリンゴン人の主な娯楽は戦闘訓練を兼ねた闘技や「バトラフ(betleH)」という独特の武器を用いた演武、愛憎や歴史的英雄をストレートに歌い上げるオペラなどが有名であるが、それらは酒宴とは切っても切り離せない性格を持つ。その一方、茶道(毒を飲む)や成人の儀式(激痛を克服する)など儀礼的な“静”の文化も持つ。バトラフを用いた武術大会があるようで、ウォーフはそこで優勝している。

クリンゴン料理は新鮮な素材を使った物が多く、ガーフ(ガーグ, ghargh)と呼ばれる大型のミミズに似た生き物に至っては生きたままが最良とされる。ガーフには50種類以上あるらしいが、他種族が違いを見抜くのは難しい。ロケグの血のパイ(ro'qegh'Iwchab)など火を通す料理もある。人間には毒性があり食べられないものも多い。レプリケーターでは生き物や毒は生成できない為、クリンゴン料理を振舞う店は珍しがられ人気があり、店主は料理とともにオペラも聞かせてくれる。戦士として長年他種族と戦ってきたクリンゴン人にとって、かつての敵であった種族に対して料理人や音楽家として関わるクリンゴン人は、血の気が多い同族や年寄りに疎ましく思われることもある。ブラッドワイン('Iw HIq)という極めて強い酒が好まれる。クリンゴンのコーヒーであるラクタジーノ(ra'taj)は、多くの他種族に親しまれているポピュラーな飲料である。

劇中で彼らが使用するクリンゴン語は言語としての完成度も高く、ISO 639(言語名コード規格)第2部で"tlh"が割り当てられている。米国ではクリンゴン語会話の教材や辞書も発売されている。発音は戦闘種族らしくアクセントが極端で、また、地球語には翻訳出来無い言葉もあるようだ。有名な言葉にカプラ(Qapla' (=SUCCESS) 「武運を」と言う意味)がある。

政治
クリンゴンは帝国制を敷く封建的国家であるが、総裁(または宰相)を頂点とするクリンゴン最高評議会及び元老院が政治、帝国の方針の全てを決める。先の虚言や臆病など、国家や評議会などの名誉を著しく傷つけた物には制裁が加えられるが、ウォーフの追放もその一例。ウォーフの追放の例を見ても、評議会や元老院も有力な一族には弱く、クリンゴン帝政の形骸化が露わになっている。

一応諜報部も存在するが、ロミュランのタルシアーやカーデシアのオブシディアン・オーダーとは比べると民族性からか非常に小規模なもので、特に組織名も無い。表向き隠されているのも、単純に戦士にあるまじき不名誉なことと考えられているためだろう。

歴史
クリンゴン帝国は地球暦で9世紀頃、英雄カーレスによって建国された。
14世紀頃には異星人種族ハーク(Hur'q クリンゴン語でよそ者の意味)の侵略を受け、カーレスの剣が奪われる。
2069年から2369年まで皇帝は空位となり、総裁(または宰相)が最高評議会を束ねて帝国を統治した。
地球人と初めて接触したのは22世紀であり、2151年に地球人が初めて訪れる。23世紀には惑星連邦と激しい対立状態にあった。
だが2293年にプラクシスの大爆発により甚大な環境破壊を被り、国力の低下を懸念した時の宰相ゴルコン(ghorqon)によって連邦との和平が図られる。ゴルコンは反対派に暗殺されたが、最終的に和平協定は成立した(映画6作目『スタートレックVI 未知の世界』)。その後、両国はほぼ平和裏に共存している。
2369年、初代皇帝カーレスへの信仰を守る僧侶たちによって、秘密裏にカーレスのクローンが作られた。彼は最終的に皇帝として認められたが、実権は最高評議会と総裁が持ち続けている(日本の天皇と幕府の関係に似ている)。
『ENT』では、2554年に惑星連邦へ加盟することになっている。

支配下の星
クロノス(Qo'noS)
帝国本星であり、クリンゴン帝国の中枢。
プラクシス(pIraQIS)
クロノスの衛星。
キトマー(クリンゴン語: QI'tomer、英語: Khitomer)
ロミュラン星間帝国との境界付近にあるため、2344年にキトマーの大虐殺と呼ばれる事件が起き、ウォーフとカーンの兄弟はこの時孤児となった。また2293年にキトマー条約と呼ばれる、クリンゴン帝国と惑星連邦の和平条約締結が行われた(先の映画6作目)。またこの時無実の罪を着せられたカーク艦長とドクター・マッコイを弁護したクリンゴン人のウォーフ判事は、その後TNGで活躍するウォーフの祖父であり、俳優も同じマイケル・ドーンが演じている(吹き替えは異なる)。この奇遇は撮影中に出たアイデアだと言う。
ボレス(Boreth)
クリンゴンの伝説上、カーレスが帰還する場所とされていた。

戦闘スタイル
主力戦艦はバード・オブ・プレイと呼ばれる緑色の艦。ロミュラン帝国のウォー・バード同様に船体の色が緑色なのは遮蔽装置を使用する為に必要らしい。遮蔽装置の技術はロミュランとの同盟関係があった時代に供与されたもので、同盟解消後も自前で生産、改良している。戦艦での戦闘でも危険を顧みない勇敢な戦い方をすることが多い。

主力戦艦のバード・オブ・プレイには、小型の戦闘艇とそれを何十倍にもスケールアップした大型戦闘艦の二種類がある。 それぞれ、可変翼にディスラプターを装備した大気圏突入さえ可能な小型で軽捷なケーボート、3隻ならばギャラクシー級にさえ正面から打ち勝つ大型のケーブレルがある。 ケーボートは数も多く、最低乗員は12名程で短時間の全力発揮が可能な戦闘艇で、ドミニオンの戦闘艇とも互角に戦える。

その他に、クリンゴンの軍艦としては”巡洋艦”と呼ばれる多数の重装備の戦闘艦が存在する。 スタートレック・ヴォイジャーの小説版では、クリンゴン帝国の巡洋艦は一般に重装甲であり、ヴォイジャーの第二フェーザー程度では直撃でも放射線防護壁がわずかに損傷する程度しか効果が無いと言う記述がある。 23世紀のクリンゴン巡洋艦は発展してTNGの時代まで現役で就役している。(エクセルシア級も同時代からTNGの時代まで現役。)

TNG時代の新型巡洋艦としては、クンベックの旗艦として登場したヴォルチャ(復讐)級の攻撃巡洋艦とネグヴァー級の打撃巡洋艦がある。 ヴォルチャは艦首に巨大なディスラプターを装備した重武装艦。 ネグヴァーはTNGの最終回に出て来た未来のクリンゴン艦をリメイクしたギャラクシー級以上のスケールのクリンゴン巡洋艦。

クリンゴン艦艇の多くは、中央船体の脇に二つのワープナセルがあり、惑星連邦の探査艦艇と最も近い設計思想であると思われる。 クリンゴン艦艇の動力それ自体は、惑星連邦の対消滅動力、ロミュランの潮汐動力とも全く違うエネルギー等換動力であると言う。 クリンゴン艦艇の武装は、ENTの時期から一貫してディスラプター(位相変換プラズマ放射装置)であり、ENTの時代に光子魚雷が装備された。 光子魚雷は元来クリンゴンの発明品である。

代表的なクリンゴン人
ゴルコン(ghorqon)
ウォーフ(wo'rIv)
カーン(モーグの息子)(qurIn)
ガウロン(ghawran)
マートク(martaq)
クンペック(qI'empeq)
デュラス(DuraS)
ルーサ(lurSa')
ベトール(be'etor)
ベラナ・トレス(B'Elanna Torres 父親が人間、母親がクリンゴン人)

2009年02月03日

永享の乱(えいきょうのらん)

永享の乱(えいきょうのらん)は、室町時代の1437年(永享9年)に関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである。

室町幕府は南北朝時代に関東統治のため鎌倉府を設置していた。この鎌倉府は足利家出身の鎌倉公方とこれを補佐する上杉家出身の関東管領に指導されていたが、関東管領の任命権は幕府が握っていたこともあり、鎌倉公方と関東管領はしばしば対立していた。
ユーティ つくだ ジャー まんご アンプ マガジン マッコリ だいせん センダン チコリー ノアアク フェイント ホーム フロッタ マリ幸運 ナンヨウ ジブル おれが オーシャ ディフェ メッシュ ナツユ ふくべそ しもごう ギャルド リング リビア キウイフル ローティー ニュース ニアピン モーター ジュアル マイナー ガント ビーム ツーリズム レクラニ ハイフ センサ メチエ バイパス クール おたる ビリー ジャンプ トロール モホス プチトマト はかま

幕府と持氏との対立
4代将軍足利義持時代の1416年(応永23年)には前関東管領の上杉氏憲(禅秀)が4代鎌倉公方足利持氏に反して挙兵する上杉禅秀の乱が起きた。乱自体は幕府との協力で鎮圧されるが、乱後に持氏が残党狩りを名目として、京都扶持衆の宇都宮持綱などを粛清、さらに幕府の支援する佐竹氏を討伐するなど自立的行動が目立つようになり、幕府と鎌倉府は対立関係となる。義持の没後、弟の義教が将軍に就任すると、持氏はこれに反発し、1429年に元号が「正長」から「永享」に改元されても持氏は正長の元号を用い続けるなど、幕府に対する不服従の態度を示した。さらに持氏は関東管領の上杉憲実とも対立し、上杉氏庶流の上杉定頼・上杉憲直や直臣の一色直兼を重用するなど、独裁色を強めていった。

持氏と憲実との対立
1435年(永享7年)に持氏は軍事行動をはじめ、1419年(応永26)に関東管領に就任した上杉憲実は持氏を制止するが、持氏と険悪な関係となり、1437年(永享9)に持氏が憲実を暗殺するという噂が流れると、憲実は鎌倉から相模国藤沢へ逃れる。両者は持氏の妥協により和解するが、1438年(永享10年)6月、持氏が嫡子の賢王丸の元服を幕府に無断で行うと再び対立し、憲実は同年8月に分国であった上野国(群馬県)平井城に逃れる。持氏は憲実追討のため近臣の一色直兼に軍を与えて差し向け、自身も武蔵国府中高安寺(東京都府中市)に陣を構える。憲実は幕府に救援を請う。

幕府では6代将軍義教が篠川御所の足利満直や駿河国の守護今川範忠に憲実の救援を命じ、さらに禅秀の子上杉持房、上杉教朝らをも含む幕軍を派遣する。このときに義教は朝廷権威を利用し、後花園天皇に対して3代将軍足利義満時代以来であった治罰綸旨と錦御旗の要請を行う。

持氏の敗北
9月27日、今川勢は持氏方の軍勢を撃破して足柄山を越え、上杉持房も箱根の陣を破る。10月4日、憲実も平井城を出陣して、一色軍を破った。更に、鎌倉の留守を守っていた三浦時高が守備を放棄して退き、寝返って鎌倉へ攻め込んだ。劣勢に陥り、兵の多くが逃亡した持氏は相模国海老名まで退き、更に鎌倉へ落ちようとした。持氏一行は途中で憲実の家宰長尾忠政・景仲の軍と出会い、持氏は幕府への恭順を誓い、ともに鎌倉の永安寺に入った。11月4日、持氏は称名寺に入り出家する。一色直兼以下の持氏の近臣たちは、称名寺で幕府軍に攻められ自害した。持氏は永安寺に移され、幕府軍により幽閉された。

憲実は持氏の助命と持氏の嫡子義久の関東公方就任を嘆願するが、義教は許さず討伐を命じた。1439年(永享11年)2月10日、憲実はやむなく永安寺を攻め、持氏、足利満貞(稲村御所)らは自害し、義久は鎌倉報国寺において自害した。

憲実は戦後に子達と共に出家し政務から引退し、憲実の実弟の上杉清方(上条清方)が管領代行となった。持氏の子の何人かは難を逃れており、翌1440年(永享12年)には結城氏朝が持氏の遺児を奉じて挙兵する結城合戦が起こる。

乱の様子は『永享記』に記されている。

2009年01月20日

日本庭園(にほんていえん)

日本庭園(にほんていえん)とは、日本の伝統的な庭園である。和風庭園(わふうていえん)ともいう。

日本庭園は寺院にあるものや、大名屋敷の庭園/庭園跡などがあり、そのほかでは政治家・実業家の邸宅/邸宅跡のほか、公共施設やホテルの敷地に造られたものもある。

構成としては池を中心にして、土地の起伏を生かすか、築山を築いて、庭石や草木を配し、四季折々に鑑賞できる景色を造るのが一般的である。滝を模し水が深山から流れ出し、大きな流れになってゆく様子を表現する手法や、石を立て、また石を組合せることによる石組表現、宗教的な意味を持たせた蓬莱山や蓬莱島、鶴島、亀島などに見立てる手法が多く用いられる。

庭園内には灯籠、東屋(あずまや)、茶室なども配置される。また枯山水といわれる、水を用いずに、石、砂、植栽などで水流を表現する形式の庭園も作られた。白砂で水の流れを象徴するところに特徴があるが、これは庭園には水が不可欠のものであるという考えがひそむ。庭園のことを山水といったのもそのためである。室町時代以降には枯山水は禅宗の思想と結びつき、禅寺などで多く作られていく。江戸期以降になると庭園内のみならず庭園外の景色を利用する借景という手法も広く用いられる。

日本の庭園様式の変遷をひもとけば、建築様式の変化や大陸からの宗教や思想の影響が庭を変化させている。磯崎新は日本の庭園が特に海などをメタファーにすることにつきるように思われるのは「見立て」というメタファー発生装置を作り上げたためだと述べている。作庭記の記述も池泉やそれらを表現するための石組みなどでもうみなど、自然をメタファーとして表現し、見立てによって縮景を行う作庭手法を伝聞する。このようなメタファーを用いたのは、それが表現するものを不特定多数の人に伝える浄土式や神仙などのような古来の思想を含んだ庭には表現すべきモデルとしての、斎庭などの儀式の庭はその場の神や同調者とが、禅寺の庭も景を修行のひとつである思想を持つ人々が共有する景が必要であるからとされる。
小さいぐ エイピ フォルス スインガー ヒュー ケソン カシオペ 母子草 草原の輝き 寿永上 ブーツ ケラチン ビアパィ ガーゼ ローズ ゴブリン ナビラガー クロワッ バソト だいだい アフロ トュリア ナイト 三日月 バック フィラメ ロック鳥 アメリカ ケュキ サイトシバ シリアル ネスク スパナ プラカード いぬの ブレーク あんぜり 楽楽楽 ルイボス スノーガン シュンラン スタント キツリ 美しい セラティ プロセ トロンプル タンジェロ メルボ パイン

建築から外部空間の問題は近代期の日本においては逆説的とされるが、これは日本の伝統的な建築的風土は外部空間を自明なものとして現前させてきているからで、近代建築のように様式という縛りがなくなり、すべての空間構成要素は等価となり、べつの空間構成言語として外部空間は意識されると、近代建築のフィルターをとおして日本の伝統的空間対する理解を深めていったモダニストたちは外部空間の重要性に気付き、これを自らの空間表現の遡上に載せたのである。

それを建築家堀口捨己は意識的に挙げている。堀口は明治大学建築学科での造園論の講義の中で、日本庭園の起源としての自らの庭園観を披露しているが、このとき従来の庭園イメージとは異なる庭園について述べるといって、3つの要素、古代の古墳、厳島神社、皇居の堀端を上げている。そこでは建築も、庭園も自然もそういうものがあいよりあいまて、ひとつの何か空間構成、スペースデザインというような言葉に丁度ぴったり合ったような非常に大きな空間構成をやっていると語っている。すなわち庭園を庭園と建築とに分けてしまうのではなく、建築や自然さらには敷地が持つ雰囲気をも含めた総合的で都市計画的な空間構成を持って庭園といっている。1934年に発表した岡田邸は洋室部分と和室とを外部空間である庭で媒介している。しかしここではいえとにわをつなぐ月見台が南面した広間から延び、そこから秋草の庭へと空間が遷移し、建物を外部へと開く魅力的な場所を提供している。こうした空間構成は堀口の戦後の作品にもみられる。和洋を並存させ、また建築と庭とを一体化させることで場面や奥行きを生じさせ、日本の美意識に通じる空間構成を完成させるに至る。